醤油のラベルに「天然醸造」と書かれているのを見たことがあるかもしれません。その言葉の裏側には、目に見えない小さな生き物たちの仕事があります。蔵に棲みついた「蔵付き菌」です。
大豆、小麦、塩、水——原料はどの醤油もそう変わりません。それでも蔵ごとに味が違うのはなぜか。答えは、桶の中で働く菌が、蔵によってまったく違うからです。
桶と梁に、百年住み続ける菌
醤油造りでは、蒸した大豆と炒った小麦に麹菌を加えて醤油麹を造り、そこに塩水を加えて「もろみ」にします。このもろみを発酵・熟成させる過程で働くのが、酵母菌や乳酸菌です。
多くの蔵では、この酵母菌や乳酸菌を種菌として人為的に添加します。品質を安定させ、発酵のスピードをコントロールするためです。
一方、木桶を長年使い続けている蔵には、桶の木目や蔵の梁、壁に、酵母菌や乳酸菌が自然に棲みついています。これが「蔵付き菌」です。種菌を加えなくても、この蔵付き菌だけでもろみは発酵していきます。同じ原料でも、棲みついている菌の組み合わせが蔵ごとに違うため、味も蔵ごとに違ってくるのです。
木桶はもう、全体のわずか1%
かつて醤油造りの主役だった木桶は、今や希少な存在です。仕込みやすく管理もしやすいステンレスタンクの普及によって、国内で木桶を使う醤油はおよそ1%まで減ったといわれています。
木桶が減れば、そこに棲む蔵付き菌の環境も同時に失われます。効率を優先すれば、無理もない流れです。それでも一部の蔵は、あえて手間のかかる木桶と天然醸造を選び続けています。
温度管理をしない、日本で唯一の蔵
滋賀県愛荘町、湖東平野を流れる愛知川のほとりに、寛政年間(1800年頃)創業の丸中醤油があります。蔵の建物4棟は国の登録有形文化財に指定され、「二百年蔵」と呼ばれています。
この蔵の特徴は、蔵付き菌に対する徹底した信頼にあります。加温するなど人工的な温度管理を一切行わず、菌の営みと季節の温度変化だけに発酵を委ねる古式製法を、今も守り続けています。これは全国でも唯一といわれる造り方です。熟成は基本3年。国産大豆・国産小麦・天然海塩だけを使い、200年住み続けた菌たちに醤油の完成を任せます。
できあがる醤油は、濃口でありながら角がなく、驚くほどまろやか。料理人たちが「主役を引き立てる名脇役」と呼ぶ味わいには、文化財の蔵そのものの時間が溶け込んでいます。
天然醸造の醤油の楽しみ方
- 卵かけご飯:加熱しない「生」の状態で、香りの違いが最もわかりやすい一杯です
- 冷奴・刺身:仕上げの一滴として使うと、蔵付き菌が育てた香りが引き立ちます
- 煮物:だしいらずでも味が決まるほどの旨みがあります
- 焼きおにぎり:火を入れると香ばしさが増し、また違う表情を見せます
同じ「醤油」という言葉の中に、これほど多様な世界があります。次に選ぶ一本は、桶に棲む菌の物語ごと味わってみてください。
よくある質問
蔵付き菌とはどんな菌ですか?
長年使われてきた木桶や蔵の梁、壁などに自然に棲みついた酵母菌・乳酸菌のことです。蔵ごとに種類や配合が異なるため、同じ原料・同じ製法でも蔵が変われば味が変わります。人為的に純粋培養した種菌を加えず、この蔵付き菌の働きだけで発酵・熟成させる醤油を「天然醸造」と呼びます。
木桶仕込みの醤油は今どれくらい残っているのですか?
現在、国内で流通する醤油のうち木桶で仕込まれているものは全体のおよそ1%といわれています。ステンレスタンクでの大量生産が主流になった結果、木桶とそこに棲む蔵付き菌の環境は、今や希少な存在になっています。
蔵付き菌で仕込む醤油はどこで買えますか?
滋賀県愛荘町の丸中醤油「丸中醸造醤油」がおすすめです。寛政年間創業、蔵の建物4棟が国の登録有形文化財に指定された「二百年蔵」で、温度管理を一切行わず蔵付き菌だけに委ねる古式製法を守っています。卵かけご飯や冷奴の「かけ醤油」で、香りの違いを確かめられます。
